時代 |
変遷 |
年 号 | 西 暦 | 事 項 | 解 説 |
古代 |
阿仁川の東西で銀山開発 |
(延暦13年~ 貞観6年) |
(794- 864) |
轟(ドドロ)山(元三枚)で金の発見(慈覚大師円仁)、伝承 | 【風張村と小渕村の時代】 戦国時代には、湯口内の銀山を支配する風張村の松橋氏と、阿仁川を挟んで、板木沢の金銀山を支配する小渕村の高田氏が、阿仁の地でせめぎあっていました。 この2つの銀山が阿仁鉱山の発祥で、当時から隆盛していました。 |
(文永の頃) | (1260) | 板木沢金山が開山 (伝承) | |||
南北朝 |
嘉慶元年 | 1387 | 湯口内の向山に金銀鉱(向銀山)を発見 (佐々木重右衛門ほか15名) |
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戦国時代 |
文正元年 | 1466 | 向銀山に山神社が創立 | ||
天文元年 | 1532 | 松橋氏が風張城を築城 その二年後、風張(吉田)に福厳寺が創立 (のち水無に移転) |
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天正元年 | 1573 | 水無に神明社が創立 小渕に高田寺(のちの耕田寺)が創立 (のち荒瀬、今は高屋渡に移転) (初代高田城主 右馬之丞が建立、高田城の築城もこの頃) |
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慶長元年 | 1596 | 銀山町に善勝寺が開基 | |||
秋田藩時代 |
大量の金の産出 |
慶長7年 | 1602 | 佐竹氏が秋田に入部 鉱山は山師(商家)の請負制 |
【阿仁のゴールドラッシュ】 慶長19年(1614)、七十枚金山の発見は、阿仁地方を激変させました。七十枚の語源は、30日間鉱山を掘るときの運上金(税金)が、大判70枚(700両)の契約と云う意味です。 破格の金山の出現に湧いた阿仁では、水無村を分割して銀山町が造られ、ここに1万人規模の入植者が集まりました。 |
慶長19年 | 1614 | 七十枚金山の開発(板木沢銀山の山師13名が中心) 板木沢銀山、湯口内銀山(のち向山銀山)を休山 土倉山(鉛)を直山とし、石かね奉行を置く 水無村を分割し、坑夫長屋の町割り(銀山町新町、1万人規模)をおこなう |
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元和4年 | 1618 | 七十枚山のわきあがり(盛り立て?)を開発 | |||
元和6年 | 1620 | 三枚三両山(金)を開発 | |||
銀山の再開 |
寛永2年 | 1625 | 板木沢銀山を再開 | 【金山の急激な衰退】 70枚の運上金も1年も続かず、急激に金山は衰退し、山師も逃げていきました。そこで藩は、休止していた2つの銀山を再開させ、金山の開発と併存させました。 |
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寛永5年 | 1628 | 湯口内銀山を再開 | |||
銅山の開発 |
寛永14年 | 1637 | 小沢銅山(極印沢)を北国屋が開発 | 【幕府の交易品が銀から銅へ】 幕府は、国内流通用の銀を保つため、銀の輸出を禁止し、外国との交易品を銅(御用銅)としました。 国内では、銅山の開発が進められ、阿仁にも関西の商人たちが、銅の開発に進出し、阿仁は銅山として繁栄してゆくことになりました。 |
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寛文6年 | 1666 | 大沢山(金)を越後惣助が開発 | |||
寛文7年 | 1667 | 三枚銅山を大坂屋が開発 | |||
寛文8年 | 1668 | 幕府が銀の輸出を禁止 | |||
寛文12年 | 1672 | 萱草銅山を鴻池が開発 | |||
藩の直営 |
元禄14年~ 正徳5年 |
1701- 1715 |
幕府は大坂に銅座を設け御用銅を管理 | 【銅生産の隆盛】 幕府は各地の粗銅を大坂の銅座に集めて精錬し、長崎御用銅として外国との交易品にしました。 秋田藩では、阿仁の各銅山の経営を商人の請負から、直営とし、管理を強化しました。 その後、国内の銅生産が伸びないため、御用銅を廻銅として、大銅山を有する藩に出荷量を割り付けました。 |
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元禄15年 | 1702 | 阿仁の主な鉱山を藩の直営(直山)とする | |||
宝永3年 | 1706 | 真木沢銅山を泉屋が開発 | |||
宝永4年 | 1707 | 二の又銅山を長井氏および中村氏が開発 | |||
宝永7年 | 1710 | 一ノ又銅山を長井氏および中村氏が開発 | |||
享保元年 | 1716 | 秋田藩は長崎御用銅(廻銅)として阿仁の170万斤の銅を割付 | |||
阿仁の鉱山の産出量が日本一となる | |||||
享保年間 | 1716- 1735 |
大覚野峠の開発(仙北から廻米) | |||
寛保2年 | 1742 | 九両山(金)を開発(3年間) | |||
大坂屋の経営 |
明和2~4年 | 1765- 1767 |
この時期の御山師5名(領内の商人)に全銅山を請負 | 【銅生産の減退と経営改革】 阿仁の銅の生産量が減少したため、藩では倹約的な経営を試みましたが、増産には結びつきませんでした。結局、これまで信頼関係にあった大坂屋に、阿仁の全山および加護山製錬所・太良鉱山等、銅生産の全てを請負わせることにし、経営は持ち直しました。 しかし、明治以降は、大坂屋はすべての商売を廃業しました。 |
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安永4年 | 1775 | 二ツ井に加護山製錬所(吹分所)を建設、運営は大坂屋の請負 | |||
寛政3年 | 1791 | 倹約と規制強化を旨とする経営改革(寛政の銅山改革) | |||
文化元年 | 1804 | 阿仁の全ての鉱山を大坂屋の請負 | |||
文化7年 | 1810 | 加護山製錬所を藩の直営 | |||
天保2年 | 1831 | ひ吹法の開発(床屋・吉田又三郎が真吹を必要としない省エネ法を発明) | |||
明治時代 |
官営の近代化 |
明治8年 | 1875 | 明治政府の官営となる | 【軌道による輸送の集約化】 メッケルの行った鉱山改革は、三枚と真木沢の鉱石を小沢に集約させ、選鉱と製錬を一元化することでした。メッケルの計画は明治17年に完成し、三枚の天池坑から小沢を抜け、水無の製錬所に繋がる軌道が完成しました。 この後、坑内で繋がった阿仁の各鉱山は、小沢鉱山に集約されていきました。 |
明治13~14年 | 1880- 1881 |
メッケルらドイツ人技師5名が来山 | |||
明治17年 | 1884 | 水無製錬所の完成 三枚通洞(天池坑から小沢鉱山ゆり場脇坑まで)完成 三枚通洞から水無製錬所まで貨車軌道を敷設 |
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明治18年 | 1885 | 古河市兵衛に阿仁六ケ山と向山銀山を払い下げ | |||
閉山・休山期 |
明治26年 | 1893 | 二の又鉱山の閉山 | 【世界の大規模銅山の開発】 19世紀の終わりに、浮遊選鉱法が発明され、低品位の銅鉱床でも生産が可能となりました。 その結果、アメリカ、南アフリカ、オーストラリア等の大規模鉱山が開発されていき、日本の銅は市場から押されていきました。 |
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明治30年 | 1897 | 向山銀山の閉山 | |||
明治31年 | 1898 | 一ノ又鉱山の閉山 | |||
明治35年 | 1902 | 奥羽本線(大館−秋田)が開通 | |||
大正時代 |
大正3年 | 1914 | 小沢選鉱場の建設(大正坑付近) | ||
大正5年 | 1916 | 三枚鉱山の閉山 | |||
大正6年 | 1917 | 真木沢鉱山の閉山 | |||
昭和時代 |
昭和6年 | 1931 | 小沢鉱山の休山 | ||
金山再開 |
昭和8年 | 1933 | 二十四孝鉱山(金)の開発および小沢鉱山の操業再開 | 【金山の復活】 小沢鉱山の休山後、古河林業の立石氏が独自に探鉱し、二十四孝山から金鉱を発見しました。この金山によって、阿仁鉱山は銅山としても復活しました。 当時、秋田鉱山専門学校の渡辺萬次郎教授も、この金鉱床を調査したようです。 |
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昭和10年頃 | 1935頃 | 旧金銀山のカラミ採りが盛んに行われる | |||
昭和11年 | 1936 | 阿仁合線(阿仁合−鷹巣)が開通 | |||
昭和13年 | 1938 | (新)小沢選鉱場の建設(現在場所) | |||
閉山 |
昭和45年 | 1970 | 古河鉱業(株)阿仁鉱山を休山、のち阿仁鉱山(株)が設立 | 【阿仁鉱山の終焉】 1960年代、世界の銅生産国は銅鉱山の国有化を始めたため、石油メジャーが銅鉱山の開発に乗り出し、世界の銅生産量は飛躍的に増大し価格が低下していきました。 |
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昭和54年 | 1979 | 阿仁鉱山(株)を閉山 |
参考文献
- 戸嶋チエ: 阿仁鉱山跡探訪, 1985.
- 戸嶋チエ: 続阿仁鉱山跡探訪, 1987.
- 工藤由四郎: 阿仁合町郷土史, 1962,
- 秋田県立米内沢高等学校社会科: 阿仁鉱山について, 1981.
- 阿仁町史編算委員会: 阿仁町史,阿仁町, 1992.
- 阿仁町史編算委員会: 鉱山と異人たち,阿仁町, 1989,
- 阿仁町史編纂委員会: 阿仁鉱山と友子,阿仁町, 1994.
- 中仙町郷土史編さん委員会: 中仙町史,中仙町, 1983.
- 日本鉱業資料集刊行委員会: コハニー阿仁銅山見込書, 白亜房, 1981.
- 小葉田 淳: 日本鉱山史の研究,岩波書店, 1968,
- 佐々木正男: 近世後期の阿仁銅山における飯米について, 阿仁合町郷土史, pp.366-371, 1962.
- 佐々木淳之介: 秋田銅山を中心として, 阿仁合町郷土史, pp.299-365, 1962.
- 小沼洋子、高橋秀夫: 阿仁鉱山廻米についての覚書, 秋田工業高等専門学校研究紀要, 第14号, pp.1-11, 1974.